深夜3時の障害対応Slackで「好きです」って送ってしまった — SREの恋愛事故報告書

それは、深夜2時のことだった。PagerDutyのアラートが鳴り、彼女はベッドから飛び起きた。本番環境のデータベースレプリケーションが遅延している。Critical。SREエンジニアの桐島美咲は、寝ぼけた目をこすりながらラップトップを開いた。

障害対応用のSlackチャンネル #incident-20260118 に入ると、すでに一人のエンジニアがいた。バックエンドチームの藤堂遼太郎。彼のアイコンが深夜にもかかわらずグリーンに光っていた。

深夜のSlackに浮かぶグリーンの灯

「レプリカの遅延、原因切り分け中。WALの書き込みが詰まってる」

藤堂のメッセージは簡潔で的確だった。美咲はGrafanaのダッシュボードを開きながら返した。

「こちらでもメトリクス見てる。レプリカのCPU使用率が張り付いてるね。vacuum走ってない?」

深夜のSlackでの会話は、日中のそれとは違う空気を纏う。オフィスの喧騒も、他のチャンネルのノイズもない。二人だけの静かな空間で、技術的な会話が交わされる。

「autovacuum、確認した。走ってるけど、ordersテーブルのdead tupleが溜まりすぎてる」

「手動vacuumかけよう。私がリードする」

美咲がランブックに沿って手動vacuumを実行する間、藤堂はアプリケーション側のコネクションプールを監視していた。二人の連携は、まるで呼吸を合わせるように自然だった。

障害復旧、そしてその先の会話

午前3時15分、レプリケーション遅延は解消された。メトリクスが正常値に戻ったことを確認し、美咲はポストモーテムの草稿を書き始めた。

「復旧確認。お疲れさまでした」と形式的なメッセージを書こうとした美咲の手が止まった。藤堂からDMが届いていた。

「桐島さん、いつも障害対応の判断が的確ですね。あの状況で手動vacuumを即決できるのはすごい」

思わず画面の前で笑みがこぼれた。障害対応で褒められることなど滅多にない。「ありがとう。藤堂さんのアプリ側の状況報告が正確だったから、私も判断しやすかった」

そこから、二人の会話はインシデント対応から逸れていった。好きな技術スタック、最近読んだ本、深夜に聴く音楽。Slackのスレッドが、技術チャンネルからプライベートなDMへと移行していた。

コードレビューという名の密会

障害の夜以来、二人はSlackのDMで頻繁にやり取りするようになった。きっかけは技術的な相談が多かったが、次第に個人的な話題が増えていった。

「藤堂さんのPR、見たけど、このN+1クエリは意図的?」

「指摘ありがとう。見落としてた。修正する。…ところで、今度のオフサイトミーティング、参加する?」

コードレビューのコメントに、さりげなくプライベートな質問が混じるようになった。GitHubのPRスレッドは公開空間だから、二人の間にだけわかる文脈が、行間に織り込まれていた。

チームメンバーの誰も気づかなかった。コードレビューの返信速度が異常に速いことに。PRを出した数分後に的確なレビューが付くのは、二人がSlackで常につながっていたからだ。

リモートワークの距離感

フルリモート環境での恋は、独特の距離感がある。毎日のようにメッセージを交わし、週に何度もWeb会議で顔を合わせるのに、物理的には数十キロメートル離れている。

ある日のペアプログラミングセッション。画面共有でコードを書きながら、美咲は藤堂の声に耳を傾けていた。低くて落ち着いた声。技術的な説明をするときに少しだけ早口になる癖。画面越しでしか知らない相手の存在が、こんなにも近く感じることに戸惑った。

「ここ、try-catchで囲まないとPromiseが漏れるよ」

藤堂の指が画面上のコードを指す。その何気ないジェスチャーに、美咲の胸が小さく跳ねた。ばかばかしい、とも思った。エラーハンドリングの指摘に心拍数が上がるエンジニアなんて。

オフサイトの夜

四半期に一度のオフサイトミーティングが、二人の関係を変えた。普段はリモートで働くチームメンバーが一堂に会する二泊三日の合宿。箱根の温泉旅館が会場だった。

初日の夜、チーム全体の懇親会が終わった後、美咲はロビーのバーカウンターで一人で飲んでいた。そこに藤堂が現れた。初めて見る私服姿。深いネイビーのニットが似合っていた。

「隣、いい?」

Slackでは何千回もメッセージを交わしてきたのに、対面で「隣にいい?」と聞かれるだけで緊張する。美咲は努めて平静を装いながら頷いた。

バーボンのグラスを傾けながら、二人は深夜まで語り合った。障害対応の思い出話、キャリアの悩み、人生観。Slackの文字だけでは伝わらなかった表情や、声のトーンや、沈黙の意味が、対面ではすべて解像度を上げて伝わってくる。

コードには書けない感情

オフサイト二日目の午後のセッションが終わり、自由時間になった。美咲はロビーのソファでドキュメントを書いていた。

「美咲さん」

名前で呼ばれたのは初めてだった。いつもは「桐島さん」だ。振り向くと、藤堂が少し緊張した面持ちで立っていた。

「少し散歩しない?近くに良い展望台があるらしい」

二人は旅館の裏手から伸びる小道を歩いた。初冬の箱根の空気は冷たく澄んでいて、遠くに芦ノ湖が見えた。

「あの障害の夜からずっと、話したいことがあった」

藤堂が立ち止まった。美咲も足を止める。眼下に広がる山並みと湖を背景に、藤堂は真っ直ぐに美咲を見た。

「桐島さんのことが好きだ。最初は技術者として尊敬していただけだった。でも、いつの間にか、Slackのグリーンアイコンを見るだけで胸が高鳴るようになっていた」

美咲はしばらく黙っていた。山から吹き降ろす風が、二人の間を通り抜ける。そして、ゆっくりと口を開いた。

「私も。深夜の障害対応で、藤堂さんのメッセージが来ると安心した。技術的な安心感じゃなくて、もっと個人的な、あなたがいてくれるという安心感」

二人だけのプライベートチャンネル

オフサイトから戻った後、二人の関係は静かに変わった。Slackのやり取りは変わらず続いたが、DMの内容はより親密になった。週末には対面で会うようになった。

ただし、チーム内での関係は一切変えなかった。コードレビューは相変わらず厳しく、障害対応は相変わらず的確に。プロフェッショナルとプライベートの境界線は、二人の暗黙の合意だった。

ある夜、美咲のアパートで。二人でノートPCを開き、それぞれの作業をしている。リビングルームの照明を少し落とした空間で、キーボードを叩く音だけが響く。

「ねえ、このアーキテクチャ見てくれない?」美咲がラップトップの画面を傾ける。藤堂がソファの距離を詰め、画面を覗き込む。二人の肩が触れ合う。

「ここのイベントソーシング、最終的にはCQRSに持っていきたいんだけど…」

技術的な説明が途中で途切れた。藤堂の手が、美咲のラップトップをそっと閉じた。

「続きは明日にしよう」

静かな声だった。美咲は小さく頷いた。

エンジニアの恋の形

テック業界の恋愛は、一般的な恋愛とは少し異なる質感を持つ。共通のコンテキストが圧倒的に多い分、言葉にしなくても通じることが多い。プルリクエストの丁寧なレビューが愛情表現になり、障害対応でカバーし合うことが信頼の証になる。

美咲と藤堂の関係は、半年後にチームに知られることになった。きっかけは些細なことだった。障害対応中に藤堂が美咲を名前で呼んだのだ。

チームメンバーの反応は温かかった。むしろ「やっと公認か」「コードレビューの返信速度で気づいてた」と笑われた。

深夜のSlackから始まる恋もある。アラートの音で飛び起き、ターミナルの緑色の文字列を見つめながら、隣にいるのがあの人だと気づいた夜。エンジニアの恋は、コードのように論理的ではないけれど、障害対応のように確実に、二人を結びつけた。

エピローグ: 新しいアラート

一年後の深夜2時。PagerDutyが鳴る。美咲は隣で眠る藤堂の肩を叩いた。

「起きて。本番アラート」

二人はそれぞれラップトップを開き、同じSlackチャンネルに入る。同じ部屋で、それぞれの画面に向かいながら、障害対応を始める。

「レプリカ遅延、またordersテーブルだ。去年と同じパターン」

「vacuum のスケジュール見直す?明日チケット切ろう」

深夜の障害対応は相変わらず大変だ。でも、隣にいるのがこの人なら、どんなインシデントも乗り越えられる気がした。

画面の向こう側にいた人が、今は手を伸ばせば届く場所にいる。美咲はモニターの光に照らされた藤堂の横顔を見て、小さく微笑んだ。それから、ターミナルに集中した。まずは、目の前の障害を片付けなければ。